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塩沼亮潤大阿闍梨。大峯千日回峰行から考える、同世代としての仕事の積み重ね

千日回峰行という言葉を、最初に知ることになったのは一本のテレビ番組だった。極限の修行を満行した直後の姿として映し出されていたのが、大峯千日回峰行満行者・塩沼亮潤大阿闍梨だった。

そこに映っていたのは、想像していた「壮絶な修行者」の姿ではなかった。鬼気迫る表情でも、達成感を誇示する態度でもない。むしろ驚くほど静かで、淡々としていた。


そして番組の中でプロフィールが紹介された瞬間、思わず言葉を失った。自分と同じ年だった。

同じ時代、同じ年を生きてきた。だが、歩いてきた「千日」は、あまりにも違う。


塩沼亮潤大阿闍梨と、慈眼寺で

千日回峰行とは何か──数字の凄さより、日常の重さ


千日回峰行は、修験道の聖地・大峯山系で約1300年続く、最難関の荒行とされている。塩沼亮潤さんは19歳で出家し、23歳で本格的にこの修行に入った。(達成は31歳前後)


一日の行程は、往復約48キロの険しい山道。これを年におよそ120日、約9年かけて歩き続ける。

雨の日も、雪の日も、台風の日も、歩く。途中で断念することは許されず、「満行するか、命を絶つか」という世界だ。


しかし、雑誌「致知」のインタビューを読み進めると、塩沼亮潤さん自身は、この過酷さを誇るような語り方を一切していないことに気づく。

「行とは、行じるものではなく、行じさせていただくもの」「人生とは、生きるものではなく、生かされているもの」

そうした言葉が、淡々と語られている。


さらに印象的だったのは、修行を通じて気づいたのは、特別な精神論ではなく、「朝起きる」「食べる」「歩く」「寝る」といった、ごく当たり前の行為の尊さだった、という点だ。



テレビと書籍で感じた“距離”が、一気に縮んだ瞬間


私はテレビをきっかけに、塩沼亮潤さんの書籍を買って読んだことを覚えている。そこに書かれていたのは、精神論や根性論ではなかった。


「特別なことはしていません」「今日やるべきことを、今日やるだけです」


拍子抜けするほど、シンプルな言葉が並ぶ。だが、その「だけ」を千日続けた人が、どれほどいるだろうか。


致知の記事の中で紹介されていた、師匠からの教えも強く心に残った。

「一に勤行、二に掃除、三に追従、四に阿呆」

・まず祈ること

・次に場を整えること

・人の話をよく聞くこと

・そして、余計な賢さを捨てること


これは修行の教えであると同時に、そのまま経営や仕事にも当てはまる原則だと感じた。



プロ経営者からの誘いを“縁”として受け取った理由


そんな折、ある著名なプロ経営者と語られる方から、「仙台に、塩沼亮潤さんに会いに行かないか」と誘われた。


忙しさを理由に断ることもできた。

だが、これまで塩沼亮潤さんのことを知り、書籍を読み、折に触れて考えてきた自分にとって、この誘いは偶然とは思えなかった。


「これは縁だ。」


理由を言語化する前に、そう感じていた。日程を調整し、参加することにした。


実際にお会いした塩沼亮潤さんは、想像以上に、遥かに穏やかだった。声を荒らげることもなく、行の達成感を語るわけでもない。


ただそこに、人として積み重ねてきた時間の厚みがあった。


このような機会をいただけたことに、

そして私を誘ってくださった方には、あらためて感謝している。


千日回峰行と仕事を並べたとき、立ち位置がはっきりした


私はこれまで、物流をテーマに41冊の書籍を書いてきた。イー・ロジットを起業し、経営に携わり、現場を歩き、一定の結果も出してきた。


だが、正直に言えば、塩沼亮潤さんの千日回峰行と比べたら、私はまだ入口にも立っていない。

ほとんどのビジネスマンも同じだろう。


ビジネスの世界には、逃げ道がある。疲れたらペースを落とせる。成果が出なければ、方向転換もできる。


一方、塩沼亮潤大阿闍梨は、言う。

「人は、できない理由を探すのが本当に上手です」

「でも、できることは、いつも目の前にあります」


千日回峰行には代替も、言い訳もない。

この差は、あまりにも大きい。



それでも仕事に通じるものがあるとすれば──単純・明快・繰り返し


それでも、仕事と修行を結ぶ一本の線があるとすれば、それは間違いなく 「単純・明快・繰り返し」 だ。


私は41冊の本を書く中で、

  • 直に現場を見る

  • 俯瞰的に構造を整理する

  • 自分の言葉にする

  • スライドまたは箇条書きににまとめる

  • 書きまとめる


この単純な作業を、ひたすら繰り返してきただけだ。


塩沼亮潤さんが語る、「何も起きない日の積み重ねが、人をつくる」という言葉は、そのまま仕事にも当てはまる。



比較ではなく、姿勢を正すために


この出会いで最も強く残ったのは、「自分はまだまだ足りない」という感覚だった。


それは劣等感ではない。立ち位置が見えたという感覚だ。


千日回峰行は、比較の対象ではない。自分の姿勢を正すための鏡なのだ。



まとめ|足りないと知ることから、仕事は始まる


千日回峰行を満行した塩沼亮潤大阿闍梨と、同じ歳を生きている。その事実は、誇りではなく、問いを投げかけてくる。


自分は、今日の一日を誤魔化していないか。単純なことを、明快に、繰り返せているか。


角井自身も、ほとんどのビジネスマンも、この域から見れば、全然足りない。


だが、足りないと自覚したとき、仕事は、ほんの少し深くなる。


千日回峰行の足元にも及ばなくても、自分なりの千日を、逃げずに歩く。


その覚悟だけは、仕事にも持ち込めるはずだ。



参考:塩沼亮潤大阿闍梨さんのお寺(慈眼寺)


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